3日前に奥さんのおじいちゃんが亡くなってお葬式があった。
おじいちゃんには菩提寺がなかったので僕が枕経、お通夜、お葬式の導師(祭壇の正面でお経をあげるお坊さんのこと)をつとめた。おじいちゃんの最後のお別れのときにお経をあげれて本当に良かったと思う。
ちょうど、7月の最初の週におばあちゃんの3回忌をつとめたばかりだった。その時はおじいちゃんは元気だった。
一週間前まではおじいちゃんの実家があったところから少し離れた老人ホームにずっと入っていたが、うちのお寺からすぐ近くの施設に空室が出来たことと、僕の知り合いのお医者さんがその施設の嘱託医もしていること、お寺の近くだと会いたいときにすぐおじいちゃんに会いに行けるという色々なご縁が重なり、その施設に入ることになった。
『これでコロナが落ち着いたらおじいちゃんに会いたいときにすぐに会いに行けるね』と家族みんなで喜んでいたが、施設に入所してからすぐに40度の高熱が出た。
担当のお医者さんからは『この状態だと、もって2.3日かもしれない』と言われた。
そして、亡くなる一日前には施設の方とお医者さんが話あってくれて、今回は特別にコロナの抗原検査をして陰性だったら大人だけではなく子どもさんも一緒におじいちゃんの顔を見にきてもらっていいですよと言ってもらえた。
ただ、その日は夜も遅かったので、明日の子ども達の小学校や保育園のことを考えると、抗原検査は明日の朝にしてから会いに行こうとなった。
明日にはおじいちゃんに会って色んな話をしようと嬉しそうに言っていた子ども達だが、おじいちゃんは、次の日の午前3時に息を引きとった。
奥さんと義理のお母さんは最後かもしれないと宣告されてからは何回かおじいちゃんの顔を見ていたが、ひ孫や僕はおじいちゃんが生きている時に話をすることも、おじいちゃんの温かい体に触れることはできなかった。
結果論になってしまうのだが、亡くなる前日に抗原検査をして最後の顔を見れば良かったと少し後悔した。
お釈迦様が説かれたように、『この世は思い通りならないことが苦しみである』と言われたように、自分たちの思っていることが思い通りにならないということが一番の苦しみになるとはこういうことなのかなと思った。
「明日でもいいか」ではなく今日、行動していたらおじいちゃんの最後の顔をみれたのではないか。
「他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる」という名言をどこかで聞いたことがあるように過去のことをどう考えても、現実は何も変わらない。大切なのは今、目の前に起こっていることをありのまま受け止め、それを受けてどのように行動するのかということだと僕は思う。
ひすいこたろうさんが書かれた『あした死ぬかもよ?』という本がある。
おじいちゃんが亡くなる1週間前にこの本読んで、おじいちゃんとのお別れと少し重なるところがあり、何故かとても心を動かされた。
それは、失う前に気が付きたい幸せは何ですか?という言葉だった。
この本の中に、終末期医療を専門で行い、これまで訳1000人の死を見届けてきた緩和ケア医 大津秀一先生の話があるのですが、その話の内容は
ある若い男性が救急車で運ばれて心臓マッサージを受けている、
その男性は朝から普通のデスクワークをしていたのですが突然倒れ、今は呼吸もしていない。
それでも、この男性を生き返らせようと心臓マッサージと人工呼吸を汗だくで一心不乱に頑張ったそうです。
CT検査をすると、その男性はくも膜下出血でした。
一時間が過ぎ、二時間が過ぎました残念ながら心拍も呼吸も再開しませんでした。
そこにその男性の家族が駆けつけてきました。若い女性と小さな女の子。いつもと同じようにその男性は手を振って会社に出かけたそうです。
それなのに今は一言もしゃべることもできない・・・
小学校に上がる前の娘さんはこの自体がつかめずにニコニコしています。
「お父さん 何やってるの」
返事はありません。娘さんはまだ笑顔です。
お父さんは冗談でやっていると思ったようです。
何十秒か過ぎたころ娘さんが叫び声をあげました
「おとうさん おとうさん」と泣き出しました。娘さんは理解したのです。
もう本当にお父さんは戻ってこないのだと・・・
大津先生はどうしてもこの命を救いたかった。でも無理でした。
死亡宣告を終えて、部屋に戻ったとき
「医者って何なんですか こういう命を救うために僕らは医者をやっているんじゃないんですか」と後輩が泣きながら言いました。
大津先生が言うには
今日無事に生きられるということは実はとても幸福なことです。
自らの親が健在なのだとしたら、それもまた幸福なことです。
大好きな人が死なずに今日生きていてくれる、それ以上の幸福ってありますか。
生きているって大好きな人に会えること、会いに行ってその人を感じることが出来るこれ以上の幸福ってありますか。
そして、君が大切に思っている人が同じように君が生きていることで幸福を感じているはずです。幸せの本質はそこにいてくれること、存在にこそあります。
人は失ってからはじめて自分の幸福に気付くのです。
職業柄、何回もお葬式をしているのですが、身近な人の死を目の前にして、改めて死があるということの反対には必ず生きるということがあり、人は死を覚悟できてはじめて今を大切に命をかけて生きていけるのだと。
そして、人は大切な人を失ってはじめて自分が幸せであるということに気付くことが多く、大切な人を失う前にあたりまえに存在している身近な人にこそ感謝の言葉や愛に溢れた言葉を使わないといけないのだと、おじいちゃんのお葬式を通しておじいちゃんに教えられた気がした。
人は生まれてきて誰にでも命の終わりが来る、それは30年後かもしれないし、もしかしたら明日かもしれない。このことは、仏さまにもどんなに優秀なお医者さんでも命の終わりは分からないのかもしれない。
明日、自分の命が終わりを迎えたときに後悔のないように、『今、この瞬間,瞬間を大切に生きる人生』にしないといけない。
2001年9月11日、アメリカで起きた同時多発テロの後、世界中に配信された、ひとつの詩があります。
その中には、
あなたは言わなくても分かってくれていたかもしれないけれど
最後だとわかっていたら 一言だけでもいい・・
「あなたを愛している」とわたしは伝えただろう
たしかにいつも明日はやってくる
でも、もしそれがわたしの勘違いで今日ですべてが終わるのだとしたら
わたしは 今日どんなにあなたを愛しているか 伝えたい
明日が来るのを待っているなら今日でもいいはず
もし明日が来ないとしたら あなたは今日を後悔するだろうから
微笑みや 抱擁や キスをするための ほんのちょっとの時間をどうして惜しんだのかと
忙しさを理由にその人の最後の願いとなってしまったことを
どうしてしてあげられなかったのかと・・・
だから今日あなたの大切な人たちをしっかりと抱きしめよう
そして その人を愛していること いつまで いつまでも大切な存在だということを
そっと伝えよう
「ごめんね」や「許してね」や「ありがとう」や「気にしないでね」を伝える時を持とう
そうすれば もし明日が来ないとしても
あなたは今日を後悔しないだろうから
とあり、おじいちゃんが周りをみると当たり前のように存在する家族や友人に対して、
自分の周りの家族や友人は当たり前の存在ではなくてとてもありがたい存在なんだよ、今日無事に生きられるということは実はとても幸せなことなんだよ。
大好きな人が死なずに今日生きていてくれる、それ以上の幸せってないんだよ。
生きているって大好きな人に会えること、会いに行ってその人を感じることが出来るこれ以上の幸せってないんだよ。
と教えてくれているような気がして、「ありがとう」や「この料理おいしかったよ」、「ごめんね」などの言葉を明日に言ったらいいやではなく、明日はもしかしたら言えないかもしれないと思い、今この瞬間に思ったときに思ったことを気持ちを込めて相手に伝えていかないダメなのだと思った。
お通夜、お葬式を通して、おじいちゃんの死は悲しくてつらいことだし、欲を言えば生きているときに最後の顔を見たかったが、過去を後悔しても何もはじまらない。
笑顔が可愛いおじいちゃんだった。お酒が好きなおじいちゃんだった。おばあちゃんのことを大切にして世界で一番おばあちゃんのことを愛していたおじいちゃんだった。
そして、生前も亡くなってからも色々な大切なことを教えてもらえたおじいちゃんだった。
自分の中にはおじいちゃんの思いが生きている。
おじいちゃんは目の前には存在しないけど、心の中にはおじいちゃんやおばあちゃんなどの関わったすべての人たちが存在しているのだと思う。
極楽から僕たちのことをやさしく見守ってもらい、おじいちゃんに教えてもらったことを大切にどんなときも前をむいて、今日一日を後悔することなく、今この瞬間を一生懸命に生きることを大切にしようと思った3日間でした。
おじいちゃん、ありがとう。
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