幸せについて、僕が考えたこと

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こんにちは、京都市中京区にある満福寺の住職・保育園の園長をしています。しゅうちゃんです。

そうさ皆、そうさ今しか生れない
そうさ皆、そうさ今を抱きしめればいい
それに気付けたことで僕は世界一幸せになれたよ

これは井上絃(いのうえ げん)君の「幸せについて、僕が考えたこと」の歌詞になります。

先月、僕の大親友であった、あるお寺の住職さんが極楽浄土に旅立ちました。39歳という本当に早すぎる死でした。

僕とその住職さんは同い年で、娘さんしかいないお寺の養子としてお坊さんになったことなど境遇も僕ととても似ていて、何でも話し合える最高の大親友といえる住職さんでした。

僕は住職になってすぐの頃、お寺のことなどで自分の思い通りにいかないことに愚痴ばかりだったが、いつもその住職さんは笑顔で僕の愚痴や不満を聞いてくれ、いつも笑って「ホンマに大変やな。大変かもしれんけど養子同士、お互いに一緒に頑張っていこうな」と僕のしんどい気持ちを受け止めてくれ、常に僕を励ましてくれていました。

そして、いつも愚痴を言うのは僕ばかりで、その住職さんからは愚痴や不満を一度も聞いたことがなく、僕はその住職さんが近くにいてくれたから何とか今まで前を向いて頑張ってこれたのだと胸を張って言うことができます。

こうして振り返って考えてみると、あの住職さんと出会うことがなかったら今でも愚痴ばかりで何もかも人のせいにしてしまう昔のダメな自分のままだったと思います。

今、こうやって一人でも多くの人に幸せになってもらいたいという想いで満福寺のことを前向きに考えられるようになり、また行動できるようになったのは、本当にあの住職さんの存在がとてもとても大きかったと感じています。

僧侶になるということ

僕もその住職さんも「在家(ざいけ)」と言って、お寺で生まれた訳でもなく、またお寺で育った訳でもない。まったくお寺とは関係のない普通の家庭から出家してお坊さんになりました。

僕の場合は、ご縁があって満福寺でお坊さんになると決めたときには、すでに師匠が癌で余命一年と宣告され、すぐにでも養子に入ってお寺を継いでほしいと打診され。あれこれ考える時間もなく、お寺の養子に入ることになりました。

今思えば、何も知らず、何も考えずに前に進んだことが結果的に良かったのですが、お坊さんになってからの10年くらいは環境の違いに馴染めず、何も考えずに出家したことをずっと後悔する毎日でした。

僕の実家にはお仏壇もなく、仏様に手を合わすという経験も数えるくらいしかなかった。むしろ、高校までは公立の学校だったので正直言って満福寺に入るまで仏教の勉強なんて真剣に学んだこともなければ、仏教なんて生きていく上で本当に必要があるの?という感じだった。

ただ、師匠の病気のことやお寺を継げる人は自分しかいないと言われたこと。自分の周りでは「自分はこんな仕事がしたい」と明確に自分の夢を持っている人が多くいる中で、僕は自分の中で絶対にこれがしたいという夢がなく、漠然と大学まで過ごしていたが、

誰かのためになる仕事ができるのなら、お坊さんになってもいいのかもとあまり深く考えずに「まぁ、何とかなるやろう」という思いで満福寺の門をくぐり出家することを決意した。

僕は保育士資格を持っていたので、大学を卒業してすぐに満福寺のお手伝い、お寺の中にある保育園、僧侶の資格を取るための大学に通うという「三足のわらじを履く」状態になった。特に満福寺と保育園で働くことが自分の想像とは180度も違う世界で、自分の理想と現実のギャップに毎日のように苦しんでいた。

やることなすことすべてうまくいかない・・・そんな毎日が続いていたが、僕が満福寺で働きはじめて半年後に師匠が亡くなった。

また、老僧にあたる、おじいさんはまだ健在だったが、肺気腫を患っており、大きな声を出すことが困難で、お経を教えることはできないということで、師匠の四十九日が終えてすぐに、長岡京市にある総本山・光明寺に約2年間の住み込みで修業をすることになった。

この修行のおかげで、あの住職さんとも出会えることができたし、満福寺にいるだけでは出会うことがなかった多くのお寺さんとのご縁ができ、自分の人生を良い方向に変えてくれるきっかけができたのだが、

お坊さんの世界では「たとえ、その色が白でも師匠が黒だと言ったら黒になる」という言葉があるように、師匠の言ったことが絶対という世界で、

四十九日が終わり、光明寺に修行に行くことが決まったときも何の相談もなしに、次の日に「本山に行くことになるから準備しなさい」と老僧に本山に行くことを決められ、なんで自分の人生を勝手に他人に決められないといけないのかと不満の気持ちを抑えきれなかったことを覚えている。

本山での修行では、毎朝4時半に起床して5時に本堂での朝のお勤めから始まり、掃除や日々の法要の手伝いなど、やることは多かったが、様々な地方から本山にお参りに来られていたお坊さんから仏教のお話や人生の話など、多くの話を聞かせてもらう機会に恵まれた。

また、今でも得意な方ではないが筆で字を書くことが大の苦手だった僕に、「書こうと思うのではなく、少しづつでいいから楽しみながら筆を動かしてみたらいいよ。何でも楽しむことが大事だよ」と毎日のように常にポジィテブに習字を教えてくださった本山の職員さんに出会えたこと。(このご縁があったから、今の満福寺の御朱印があるのかもしれない。あの時の職員さん本当にありがとうございます)

そして、時には本山を抜け出し、犬やイノシシに追いかけられるという笑い話もあったが、ほぼ24時間寝食を共に修行をしてきた同じ修行仲間がいたりと、本山での修業は大変なことも多かったが毎日が充実していた。

そして、僕が約2年間の修行を終えるころに、本山の職員さんから「自分と歳も同じくらいで、ご縁があって、養子でお寺に入る子がいるから今度紹介する」と紹介してもらったのが、その住職さんとの初めての出会いだった。

その住職さんは初めて会ったときからさわやかな好青年という感じで「お寺のこと、本当に何にも分かからないから、色々と教えてね。」とあちらから気さくに話しかけてくれ、その後は、趣味のこと、お互いの地元のこと、なんでお坊さんになることになったのか、養子にしか分からないお互いの苦労話など本当に話が尽きることがなかった。

本当の修行期間

約2年間の本山での修業を終え、満福寺に戻ってきてからが、本当の修行の日々だった。

修行を経験したことで「お寺のことはひと通りできる」と自信満々で満福寺に戻ってきたが、お寺や保育園の仕事のどちらも修行に行く前と同様に、自分のやることが認められることがほとんどなく、自分の思うようにうまくいかないことに苦しみ、悩み、こんなことでいいのだろうかと思うことが多くなっていき、

「もうお坊さんも保育士も辞めたいな。本当に自分はこの仕事が向いているのだろうか?どうすれば今のこの人生をやり直せることができるのだろうか」などと思い悩んだことは数えきれないほどあった。

そんな中、満福寺に戻ってきて4年後に老僧であった、おじいさんも亡くなり、満福寺のお坊さんは僕一人になり、満福寺の第二十八世の住職と夜間保育園の園長になることになった。

老僧が亡くなって満福寺の住職になり、分かったことが一つあった。それは、老僧が存在していてくれたことで色々なことから実は守られていたということに気付かされた。

自分が住職に変わったとたんに「これはどうなっているんですか?」「何でこんなことも分からないのか」など様々な方面から厳しい指摘を受けることも多かった。

また、老僧が僕に対して厳しく接してくれていたのも「満福寺の住職として早く一人前になって欲しい」という思いと、「一人になったときに苦しまないように」という配慮があったことに気付き、老僧が元気な時にもっと積極的にお寺のことなど聞いておけばよかったと思った。

そんな中で、何が一番苦しかったかと言うと、失敗しないように上手くやろうと思えば思うほど、やることなすこと全て上手くいかず、むしろ最悪な状況になってしまうことの繰り返しで、「何でいつもそうなるの」や「全然分かってない」と周りから毎日のように言われることが一番苦しかった。

そういったことが重なると、どうしようもない時は考えることも嫌になり、「もう死んでもいいかも」とふと思うこともあった。本当にうつ病になる一歩手前までいっていたのかもしれない。

「もう死んでもいいかな」と思ったそんな時に、死んだら自分の両親はどう思うのだろう、弟やあの住職さんはどう思うのだろうとふと頭をよぎったり、「もうすべて終わりにしよう」と思っても急に自分で命を絶つことに対する恐怖心が出てきて、結局何もできずに朝を迎えるという繰り返しだったような気がする。

自殺をしてしまった人は心の弱い人だと言う人がいるが、私は自殺を選択してしまった人というは死の恐怖や親や友達の悲しむ姿を想い、その想いを越えてまでも自分の命を絶つ決断をしたのだから、心が弱いのではなく強い決心がそこにはあるのだと思う。

ただ、自分の命を自分の意志で絶つということは、それがとても寂しくて辛い行為であって、決して誇れることではないと僕は思う。

本当はもっと生きたくても生きれない命がある中で、その大切な自分の命を絶つということは、生まれてから今までご縁のあった家族や友人をとてつもなく悲しませ、残された人は死ぬまでその悲しくてつらい思いを抱えて生きていかなければならないからだ。

僕が「何もかもしんどい、もう終わりにしたい」と思っていたときに立ち直れたのは、その住職さんやご縁のあった人から仏教の教えや悩みを聞いてもらったことが、僕の救いになって何かを変えるきっかけに繋がったのだと思う。

そのことで、本当に少しずつではあったが他人と比べることをやめることができ、自分のことを少しづつ認めることができるようなり、結果的に自分の人生を前向きに歩めるようになっていった。

人はどんなにつらいときでも、何かほんのささいな出来事やきっかけで大きく自分を変えることができるのだと僕は思う。そして、僕は満福寺での活動を通じてそんなきっかけをつくれる存在になりたいと思っている。

満福寺でお坊さんになったこと、師匠が亡くなって本山に修行に行ったこと。また、多くのお寺さんとご縁を結べたこと。満福寺に帰ってきて思い通りにならずに苦しんだことも今思えば、こうして今の自分が存在しているのに絶対に必要だった何かの運命だったのかもしれない。

だから、何かに悩んでいて苦しんでいる人が満福寺にお参りにきてもらったご縁からその人の話を聞かせてもらうことで、少しでもその人の気持ちを楽にすることができたら、当たり前じゃない今日一日の一瞬一瞬を大切にしてもらうことができるのではないかと考えています。

昔の僕みたいに「何かのきっかけで自分を認められるように変われるかもしれない」「満福寺のご縁で『幸せになるぞ!』と思ってもらえるきっかけを作りたい」という想いで、僕は満福寺で法務や法話、御朱印などの活動を続けています。そして、それこそが本当のお寺の役割ではないかと僕は信じています。

突然の出来事

大親友だったあの住職さんの話に戻りますが、

その住職さんとは、一緒に銭湯に行って「将来的にはこんなお寺にしたいな」などの話をしたり、飲みに行っては家族や友達のたわいもない笑い話をいっぱいしました。

そして、これからももっともっと色んなワクワクすることを話せると思っていた。

その住職さんは、いつもこちらが何か手伝って欲しいと声をかけると「いいよ」と二つ返事で何に対しても全力で付き合ってくれた。本当に僕にとっても満福寺にとっても欠かせない存在だった。

11月にも、僕がインフルエンザにかかってしまい5日間の自宅待機を医師から言われ、その待期期間中にどうしても変更できない法事があり、

色々な知り合いのお寺さんに「インフルエンザになってしまって法事をすることができないので、代わりに法事をお願いすることはできますか?」と連絡をしたが、その日は祝日で他のお寺さんも法事をたくさん聞いていたこともあり、どのお寺さんも厳しいとのことだった。

ダメもとで、最後にその住職に連絡したところ、「大丈夫。その日は朝一番のお参りだけやから代わりに法事できるよ」とすぐに快く引き受けてくれた。

実はその日に3人目のお子さんが生れる予定日だったのに、こちらがこんなときにお願いして申し訳ないと思うだろうと気を使って、当日まで何も言わずに法事を引き受けてくれていた。

その住職さんの赤ちゃんが生まれたのがその日の深夜の3時で、その住職は出産に立ち会って、檀家さんのお参りに行ってから、うちの法事を代わりにしてくれるというハードスケジュールだった。

「こんな大変なときに法事をお願いしてごめんな」と言うと、「全然いいよ。娘の出産に立ち合いできて、法事も間に合って良かったわ。生まれてきてくれた娘と嫁さんに感謝やわ」と笑顔で言ってくれたことに「ホンマにありがとう」と感謝の言葉しか出てこなかった。

そして、「今度はそっちが困った時には何でもするから遠慮せんで何でも言ってな」と言っていた矢先だった。こんなことになるなんて少しも想像していなかった。

その3週間後に突然、友人からLINEに連絡が入って、

その住職さんが倒れて緊急で入院していて、今も意識が戻らなくて、かなり危険な状態なので最後に仲の良かった人達に面会してもらいたいと奥さんから連絡があったということだった。

法事を代わりにしてもらった3週間後のことだった。正直、何かの冗談だと思った。絶対に嘘だと自分に言い聞かせていた。とりあえず何も考えられない状態で急いで言われた病院に向かった。

病院に入り、その住職さんがいる集中治療室に案内され、意識のない状態で人工呼吸器の音だけが鳴っていて、心臓だけが動いているその住職さんの姿が目の前にあった。

3週間前まで、「赤ちゃん生れておめでとうな。落ち着いたらまた飲みにいこう」「今度は俺が何か法事できないことがあったらよろしく頼むな」と笑顔で話しあっていたのに、今は呼びかけても返事も返ってこない、信じられないことになっている。

なんて言葉をかけていいか分からなかったが、自然に「ぜったいに戻って来いよ。あっちの世界に行くのはまだ早いで、お前はもっとやることあるやろ。まだ子どもも生まれたばっかりやん。絶対にこっちの世界に帰ってこいよ。俺は待ってるから信じているから戻って来い」と無心でその住職さんに呼び掛けている自分がいた。

お坊さん失格かもしれないが、「なんであの住職さんが倒れてしまわないといけないのか、他に倒れないといけない人なんてこの世の中にいっぱいいるではないか」と思ってしまった。

状況を理解できず、何も考えられず、そのままお寺に戻った。その日は寝れなかった。

頭の中では、「こんなことになるんやったら、もっと一緒にいろんなことに挑戦しとけばよかった」「もっと飲みに行って色んな話をしたかった。もっと将来のこととか語り合いたかった」

でもしょうがないことなんだと何度も自分に言い聞かせようとしたが、色んな思いが頭の中をグルグル回って自分にはこの気持ちをどうすることも出来なかった。

集中治療室で面会をした次の日から、何か自分にできることはないのかと考え、

毎日のように、その住職に「こっちに戻ってこいよ」と声をかけにいこうと思ったけど、そんなことをしたら、相手の家族に迷惑がかかるかもしれない。

その住職さんのお寺の法事を代わりにしようと思っても、組寺と言って関係の深いお寺さんで代わりに法事をしているので、それもまたかえって迷惑になってしまう。

その住職さんの家族に対して自分が何かできることはないかと考えたが、何もできることが思いつかなかった。

もしかしたらできないと思っているのは、自分にしようとする勇気がないのかもしれない。そんなことを思うと自分のことが嫌で嫌でたまらなくなっていた。

『幸せについて僕が考えたこと』

そんなときに、何も考えずにぼーっとYouTubeを見ていたら、たまたま井上絃君「幸せについて、僕が考えたこと」のミュージックビデオが表示され、ちょっと気になったので再生してみました。

「幸せについて、僕が考えたこと」のミュージックビデオが再生され、その映像と歌詞を聴いていたら絃君のこと、その住職のこと、自分の何もできない無力さなど色々と思いが込み上げてきて、涙がどうしようもなく止まらなくなってしまった。

もしかしたら、「大丈夫。お前は目の前のことに一生懸命になったらいい」と、この大切な曲に出会わせてくれたのはあの住職さんなのかもしれない。

神様わかったよ 僕は今
前に進むこと 選んだよ
当たり前じゃないこと
向き合えた自分ごと

公園で遊ぶ声
愛してくれたこと
愛する人がいることに気付けたんだよ

そうさ皆そうさ今しか生きれない
そうさ皆そうさ今を抱きしめればいい
それに気付けた事で僕は 世界一幸せになれたよ

幸せについて考えた
過去を振り返るその度に
当たり前じゃないこと
噛み締めた痛みごと

はやく家に帰ろう
愛していること
今しか今はない だから走っていくよ

そうさ皆そうさ今しか生きれない
そうさ皆そうさ今を抱きしめればいい
それに気付けた事で僕は 世界一幸せになれたよ

幸せについて僕が悩んでた事全て簡単だったんだ
目の前に居るその人に 幸せを伝えよう

そうさ皆そうさ今しか生きれない
そうさ皆そうさ今を抱きしめればいい
それに気付けた時に僕は 世界一幸せ者だった

幸せについて僕が考えたこと

この歌詞をかいた絃君は小児がんを患ったことがきっかけに、入退院を繰り返しながら、自宅での療養時間に国内外を問わず様々なアーティストのカバー曲動画をYouTubeなどのSNSで投稿を始めた。

両親が、優里など数々のアーティストをサポートする音楽クリエイター集団・CHIMERAZのBOSSにメッセージを送ったことがきっかけで、絃君のアーティストとしての可能性を見出したBOSSが音源を優里に送ると、優里が歌声に惚れ込み「直接、歌声を聴きたい」と2人が共演し、「絃君の歌声はいろんな人に響く」と優里から作曲をサプライズ提案したことにより、この『幸せについて、僕が考えたこと』の楽曲作りが始まった。

絃君が書き下ろした歌詞をベースに、優里が絃君の世界観を引き出す歌詞に仕上げ、優里とCHIMERAZが作曲を手がけ、『幸せについて、僕が考えたこと』が誕生した。

この曲は、絃君が闘病する中で考えた「幸せとは何か?」に気付いた時のストレートな思いが綴られており、少年らしい純粋さと、包まれるような優しさを持った歌声に男女問わず、心を動かされる曲になっています。

絃君が小児がんだと分かったときは、とても辛くずっと後ろ向きな気持ちだったと思います。しかし、そのことで、今生きていること、息をしていること、体温があること、何もかもが「当たり前」ではなく、一つ一つが生きている証なんだと気付き、その時、自分のできること全てそのままで明日を生きること決めたからこそ、このような奇跡の曲ができたのだと思います。

そして、この奇跡は絃君が自ら行動したからこそ実現したのだと私は思います。

私たちは苦しいことがあると過去に栄光を求めたり、思い出に縛られていたり、起こるか分からない未来の不安を考えすぎたりして行動をやめてしまいがちになりますが、私たちが生きているのは間違いなく「今、この瞬間」でしかないのです。

今、目の前のことを大切にすれば、過去と未来の呪縛から解放され、自分は世界一幸せだと気付くことができるのです。幸せについて考えたとき、思い出される一つ一つが実は当たり前ではないのです。

学校に行くこと、叱られて泣いたこと、そばにいてくれること、ドアを開けたらおかえりと聞こえること、それら存在していることすべて、奇跡の上に成り立っていることなのです。

このすべてのことが当たり前でないことだから、過去で生きることも、未来に生きることも不可能であって、私たちが生きられるのは間違いなく「今、この瞬間」だけなのです

この『幸せについて、僕が考えたこと』は今を大切に生きるだけでいい。幸せとは何なのかを気付かせてくれる僕の大切な一曲になりました。

あなたが失う前に気が付きたい幸せは何ですか?

『幸せについて、僕が考えたこと』を何回も聴いている中で、妻のおじいちゃんが亡くなったときに「ひすいこたろう」さんの著書である『あした死ぬかもよ?』の中での終末期医療の大津先生の話のことを思い出した。

それは、「あなたが失う前に気が付きたい幸せは何ですか?」という話であります。

終末期医療を専門で行い、これまで約1000人の死を見届けてきた緩和ケア医である大津秀一先生の話はこういった話になります。

ある若い男性が救急車で運ばれて心臓マッサージを受けている、

その男性は朝から普通のデスクワークをしていたのですが突然倒れ、今は呼吸もしていない状態だった。

それでも、この男性を生き返らせようと心臓マッサージと人工呼吸を汗だくで一心不乱に頑張ったそうです。

CT検査をすると、その男性はくも膜下出血でした。

一時間が過ぎ、二時間が過ぎました残念ながら心拍も呼吸も再開しませんでした。

そこにその男性の家族が駆けつけてきました。若い女性と小さな女の子。いつもと同じようにその男性は手を振って会社に出かけたそうです。

それなのに今は一言もしゃべることもできない・・・

小学校に上がる前の娘さんはこの自体がつかめずにニコニコしています。

「お父さん 何やってるの?」

返事はありません。娘さんはまだ笑顔です。

お父さんは冗談でやっていると思ったようです。

何十秒か過ぎたころ娘さんが叫び声をあげました

「お父さん お父さん」と泣き出しました。娘さんは理解したのです。

もう本当にお父さんは戻ってこないのだと・・・

大津先生はどうしてもこの命を救いたかった。でも無理でした。

死亡宣告を終えて、部屋に戻ったとき

「医者って何なんですか こういう命を救うために僕らは医者をやっているんじゃないんですか」と後輩が泣きながら言いました。

大津先生が言うには

今日無事に生きられるということは実はとても幸福なことです。

自らの親が健在なのだとしたら、それもまた幸福なことです。

大好きな人が死なずに今日生きていてくれる、それ以上の幸福ってありますか。

生きているって大好きな人に会えること、会いに行ってその人を感じることが出来る
これ以上の幸福ってありますか。

そして、君が大切に思っている人が同じように君が生きていることで幸福を感じているはずです。幸せの本質はそこにいてくれること、存在にこそあります。

人は失ってからはじめて自分の幸福に気付くのです。

ひすいこたろう『あした死ぬかもよ?』より引用

身近な人の死を目の前にして、改めて自分にも死が存在するということに気付ける。

つまり死の反対には必ず生きるということがあり、人は死を覚悟できてはじめて今を大切に自分の命をかけて生きていけるのだと思います。

そして、人は大切な人を失ってはじめて自分が幸せであるということに気付くことが多く、大切な人を失う前に「当たり前」に存在している身近な人にこそ「ありがとう」「愛している」といった感謝の言葉や愛に溢れた言葉を使わないといけないのです。

人はこの世に生まれてきて、そして誰にも命の終わりが必ず来ます。それは30年後かもしれないし、もしかしたら明日かもしれない。このことは、どんなに優秀なお医者さんでも命の終わりは分からないと思います。

明日、もしかしたら自分の命が終わりを迎えたときに後悔のないように、『今、この瞬間,瞬間を大切に生きる人生』にしないといけないのです。

その住職さんが当たり前のように存在していると思っていた自分が急に大切な存在を失って、改めて自分の命が生かされていることに気付かせてもらえた。そして、一日一日を大切にして今自分にできることを精一杯しないといけないということを教えてもらった。

そして、絃君の『幸せについて、僕が考えたこと』を僕に出会わせてくれたのは、その住職さんが「今、この瞬間を大切にして、俺の分まで一生懸命に生きなアカンで!」と僕に伝えてくれているのだと感じました。

人は二度死ぬ

僕はお通夜のときに、「人は二度死ぬ」というお話を檀家さんにするのだが、これは人は心臓が止まって亡くなると、目が見えなくなり、鼻が利かなくなり、口も使えなくなる。

しかし、耳だけは火葬される直前まで聞くことができる。だから、私たち僧侶が亡くなった人が迷わずに極楽に行けるようにお経をあげたり、お通夜やお葬式でご縁のあった人達と故人が最後のお別れをすることができる。

そして、火葬されると極楽に向かう49日間の死出(中陰)の旅に出て、最後は極楽に生まれることができるとお経には書いています。というお話をします。

僕は、お通夜や葬儀で故人とお別れをすることは1回目の死であって、まだ本当は亡くなってない。人は2度目の死を迎えて、その時にご縁のあった方と本当のお別れをして、はじめて極楽浄土に生まれることができるのだと僕は考えています。

その2度目の死を迎えるというのは、この世界中で誰もが、その人のことを語らなくなる。またその人のことを誰もが思い出さなくったときに初めてその人は2度目の死を迎えて本当の極楽に生まれることができるというものです。

だから、2度目の死を迎えるそれまでは法事や普段の生活で故人のことを思い出したり、その人のことを話すことでご縁のあった方の心の中で故人が生き続けているのだと私は信じています。

だから、お葬式や法事では出来るだけ故人のことをたくさん話したり、思い出話をしてくださいねとおお願いをします。

それは、みなさんの中でその人が生きることができるから。また、残された方もその方と一緒に生きていると思うことで、頭では理解できても心ではなかなか理解することが出来ない辛い気持ちが少しでも楽になるかもしれないからです。

そして、皆さんは一人で生きているのではなく、ご先祖様やこれまでにご縁のあったたくさんの方の命の繋がりによって支えられ、今生きているということを知ることができるのです。

辛いことしんどいことがあったときには胸に手を当てて、あの人ならこんなときどうするだろうか。楽しい時や嬉しい時にはその人の笑顔を思い浮かべて一緒に幸せを感じることができる。

これこそが「人は二度死ぬ」ということなのだと僕は思います。

最後に

僕ひとりの力では立派なことは何一つできないかもしれない。

でも、あの住職さんが自分の心の中に生き続けることができるのだとしたら、あの住職さんの思いも一緒になって一人でも多くの人を幸せにすることができる一歩を踏み出せるかもしれない。

あの住職さんの思いが自分の中で生き続けることができると思えると、たとえどんなに辛いことがあっても前を向いて頑張れる気がします。

最後に、お葬式のお別れのときに、その住職さんの奥さんが仲が良かった皆さんに最後、主人も喜ぶと思うのでお別れの花を棺に入れてくださいと言ってくれた。僕は棺に住職に向けての手紙も一緒に入れてもいいかお願いしたところ快くいいですよと頷いてくれた。

その手紙は「俺はお前の分まで前に進む!俺は一人じゃない。共に生きていこうな見といてくれよ」という手紙を棺の中に入れさせてもらい、この世での、一度目のお別れをした。

あの住職さんが2度目の死を迎えるまで僕はあの住職さんとこれからも一緒に生きていこうと思う。そしてどんなことがあってもあの住職さんの分まで前に向かって進んでいこうと思う。

お坊さんになって、あの住職さんと奇跡的に出会えたこと。

そして、幸福の満ちる寺という名前の『満福寺』というお寺の住職になったという縁を大切にして、これからも色々な思いで悩んで苦しんでいる人、一人でも多くの人を仏教の力、満福寺のご縁で気持ちを楽にすることができ、幸せになってもらうような活動をしていきたいと改めて決心させてもらえたお葬式になりました。

この記事を読んでいただいた方で、大切な人を失ったり、どうしようもなく辛くてしんどいと思っている人が少しでも何か自分を変えるきっかけに繋がれば嬉しいです。

だらだらと長い文になってしまいすみません。最後まで読んでいただいてありがとうございました。

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